脅迫することは不適切「指導」?教育は特別という危険な感覚
茨城・高萩市で市立中学生自殺、「殺すぞ」部活動顧問が不適切指導(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース
— もょもと (@bigface1979) 2019年5月6日
よく人様の子供にそんな暴言を吐けるもんだ。これは脅迫罪で逮捕が妥当。 https://t.co/n2jSNnNqDq
教育の特殊性という言葉、これが全てをおかしくする。いじめは侮辱、暴行、脅迫罪。在校時間上限規制はサービス残業上限規制。普通の市民社会の秩序、法体系を入れる事で、結構改善されそう。内藤先生のいじめの構造を読んでそう感じます。教育や学校を聖域化しない!
— もょもと (@bigface1979) 2019年5月6日
道徳の指導案を書く関係で、再度読み返してみました。
改めて読むといじめだけではなく、今の教育の病理が明らかになっています。
有名な「葬式ごっご自殺事件」では、学校の対応が大きな問題になりました。
中野区富士見中で起こったいじめ事件ですが、私が「ん?」となったのは以下の文です。
引用します。p23
のちに事実関係の違いを指摘された校長は、「教育の論理と司法の論理がありますから」と言った。
以前は読み飛ばしていたのですが、実はこの部分が学校の病の原因ではないかと感じました。
それは「教育は他の分野と違う、教育は特別なもの」という考え方です。
以前は学校は警察が介入することを極度に嫌っていました。
逮捕して法の裁きによって更生するのは、教育的ではないという感覚が原因です。
このように「教育は特別」と内心で思っている教員のなんと多いことか。
教員が持つこの感覚は、違法サービス残業を「教員の勤務の特殊性」とか、ひどい暴言を「指導の一環」を言い換える原因になっているのではないでしょうか?
内藤先生は著書の中で「いじめ解決には市民社会の秩序」を学校に取り込むことが効果的と述べています。
私も同感です。
一般の社会人は「正式な業務の後、スポーツの指導をお願いね。お金は出ないけど、生徒の安全は確保してね。何かあったら責任はとってもらうけど、あくまで無償のボランティアだよ。やりがいはあるよ。」と言われて、ハイやりますと言うでしょうか?
でも学校だと、教員は部活動を指導して当然と言われる。
今回の部活動の顧問のようにコンビニで中学生に「殺すぞ」と言ったら、即逮捕されます。しかし、学校で暴言を吐くと「不適切指導」となる。おかしいですね。
いじめに対してはいじめ防止対策推進法ができ、不十分ながらも法にのっとった指導ができるようになりました。
私は毎年生徒集会で、全校生徒に向かっていじめ防止対策基本法の説明、いじめ裁判の事例、いじめと刑法を事細かく説明してます。管理職の前でやる事が大事ですね。いざという時に、法に則って指導しますよ!という宣言にもなるので。法教育の一環です。
— もょもと (@bigface1979) 2019年5月6日
しかし、教育は特別という感覚が教員や文科省に残っている限り、教員の働き方改革やいじめ問題、部活動でのパワハラなどはなくならないでしょう。