BIGFACEs Opinion

教育に関するツイート、教員の働き方改革のついての意見を書いていきます。

脅迫することは不適切「指導」?教育は特別という危険な感覚

 

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 道徳の指導案を書く関係で、再度読み返してみました。

改めて読むといじめだけではなく、今の教育の病理が明らかになっています。

有名な「葬式ごっご自殺事件」では、学校の対応が大きな問題になりました。

中野区富士見中で起こったいじめ事件ですが、私が「ん?」となったのは以下の文です。

引用します。p23

のちに事実関係の違いを指摘された校長は、「教育の論理と司法の論理がありますから」と言った。

以前は読み飛ばしていたのですが、実はこの部分が学校の病の原因ではないかと感じました。

それは「教育は他の分野と違う、教育は特別なもの」という考え方です。

以前は学校は警察が介入することを極度に嫌っていました。

逮捕して法の裁きによって更生するのは、教育的ではないという感覚が原因です。

このように「教育は特別」と内心で思っている教員のなんと多いことか。

教員が持つこの感覚は、違法サービス残業を「教員の勤務の特殊性」とか、ひどい暴言を「指導の一環」を言い換える原因になっているのではないでしょうか?

内藤先生は著書の中で「いじめ解決には市民社会の秩序」を学校に取り込むことが効果的と述べています。

私も同感です。

一般の社会人は「正式な業務の後、スポーツの指導をお願いね。お金は出ないけど、生徒の安全は確保してね。何かあったら責任はとってもらうけど、あくまで無償のボランティアだよ。やりがいはあるよ。」と言われて、ハイやりますと言うでしょうか?

でも学校だと、教員は部活動を指導して当然と言われる。

今回の部活動の顧問のようにコンビニで中学生に「殺すぞ」と言ったら、即逮捕されます。しかし、学校で暴言を吐くと「不適切指導」となる。おかしいですね。

いじめに対してはいじめ防止対策推進法ができ、不十分ながらも法にのっとった指導ができるようになりました。

しかし、教育は特別という感覚が教員や文科省に残っている限り、教員の働き方改革やいじめ問題、部活動でのパワハラなどはなくならないでしょう。